活字の誘惑 > 岡惚れ、ベタ惚れ、ビバ!クーバ(万歳!キューバ)!


「明日できることは今日はやらない」人々がつくりだした不思議な国

そこらじゅうから聞えていたいろんな音楽が突然止んだ。停電だ。音楽に合わせて大声で唄ったり、叫ぶように騒いでいた声も一緒に止んだ。珍しい静寂。夜が長く感じられる。すると真っ暗な中、どこからか歌声が、それも大勢の優しく綺麗なハーモニーが流れてきた。空には満天の星。キューバだなあ。

「わあ!」といっせいに声が上がる。明かりが点いた。同時に拍手が起こる。停電は毎度のことなのに、いつもこの「わあ!」と拍手だ。歓んでいる様子が可愛らしいくらい伝わってくる。そしてまた、前の騒音に戻るのだ。
私がキューバに暮らし始めた6年前の光景。

今は停電がほとんどなくなった。だから、ご近所はいつも音楽と騒音に包まれている、昼でも夜でも。何故か暇な人ばかりだから、常にどこからでも音楽が聞こえ、立ち話している人が多い。

子どもたちが外で遊んでいる。小学生くらいから高校生くらいまで、一緒になって遊んでいる。異年齢集団で遊ぶのはいい、社会勉強みたいなものだ。毎日子どもたちの元気な声が響いている。

声は子どもたちばかりではない。キューバ人は大きな声で遠くからでも人を呼ぶ。知り合いに会うと大声で挨拶する、少々遠くに見かけても、

「オジェー!(聞いて)」(あまり意味がない、ただの挨拶)
「ディメ!(言って)」(別に何か言うわけではない、挨拶)
「コモ・アンダー?(どう?)」(ご機嫌伺いだが、挨拶)

という声があちこちから飛び交うのだ。
もちろん歩いていても掛けられる言葉。

知り合いに会うと大袈裟なくらいの挨拶をするのがキューバ人。
男同士では親指を立てて「ニッ」と笑う、実に魅力的な目付きをして。

女性はベシート(頬キス)して、
「久しぶりね、元気だった?家族はどう?」とベタベタ。情が濃い。一度知り合ったらもうアミーゴ(友だち)。次にどこかで会うと、友だちのよしみで融通を利かせてくれたりするのがキューバ式。

人懐っこく親切、お節介、冗談好き〜居心地がいいのだー

困っている人を助ける、手伝うのはここでは当たり前。見過ごせない、というよりも手助けして喜ばれるのが好き、という感じ。
大きな荷物を持っていると必ず傍にいる男性が運んでくれる、どこか誇らしげな表情さえ見せて。マッチョのラテン人だもの。

タクシーなど降りるとき手を差し伸べられる。女性に対してのマナーでもあるけれど、男性から女性にだけではなく、女性同士でも手助けする気持ちが瞬時に働くようで、お節介なくらい声をかけられる。そんな人間的な雰囲気がとても気持ちがいい。

そう、キューバを一言で言うと、“気持ちの良い社会”なのだ。そしていつも冗談が飛び交っている、バスの中でも乗合タクシーの中でも、お互い知らない者同士でも。屈託ない笑い声を聞くとこちらまでニヤリとしてしまう、ふんわりといい気分に
なる。居心地がいいのだここは。

“ケ・リーコ!クーバ!“ なんて美しい(美味しい?)キューバ!

「クーバ、クーバ、ケ・リ〜コ・クーバ!」
すごい巻き舌でリーコ(美しい・美味しい)と言う。

「素敵なキューバ」「俺たちはキューバ人」と腰を振りながら歌っている。
歌とダンスが大好きなキューバ人は身体が自然に動いてしまうようだ。それにキューバ自慢の歌が多い。なんでキューバ人はみんなこんなに愉しそうに暮らしているのだろう?
「貧しい」とか言っているのに、何の心配もないようにみえる。安心して暮らしているのだろうきっと。“安心して暮らせる社会“って、案外少ないのでは。

親しい友人のロベルトは弁護士。
妻のヒセラは3回目の結婚でやっとゲットした若い頃からの憧れの女史。
ヒセラは結婚2回目。どちらも以前の相手の子どもがいるし、ヒセラは孫もいる。ロベルトはこの国の貧しさと社会主義に嫌気がさして、いつかスペインへ亡命したいと考えていた。

2年前、ロベルトの書いたSF小説がスペインで賞を取った。以前にも、モジリアニを小説にしてドイツで出版されたことがある彼は、貧しいキューバで埋もれたくはないのだ。
スペインからの招待でスペインへ行くことになった、4,000ドルの賞金つきで。私たちは知っていた、彼が2度とキューバへ戻ってこないことを、そしてヒセラをスペインへ呼ぶだろうことを。

ロベルトはスペインで弁護士仲間から仕事を紹介され、数ヶ月滞在した。
滞在したのだ、帰ってきたから、キューバへ。

みんなは驚いた。
でも彼は何も言わず、血色良く太って、ネクタイをして帰ってきた。

私は訊いた、
「あんなにキューバは嫌だ、外国ならどこでもいいって言ってたのに、一番希望していたスペインに行けたのに。どうして帰ってきちゃったの?」

彼はちょっと笑って、
「バルセロナは素敵なところだった、とても綺麗で食事も美味しかった、暖かかったし。良かったよ」とまだ夢から覚めないような目付きになった。
とても良かったそうだ。

「それなのに?」
「これから歳をとっていくのに、一生をスペイン(キューバ以外の国)で暮らしていくことは不安だ、だって何の保障もないんだ、他所の国は」

革命後の世代の中には、ロベルトのように資本主義の国に憧れを持っている人がいる。
彼だけではない。観光旅行ではなく、暮らそうと思って(決意して)外国へ行って、見て、そこがどんなに発達した、便利な何でも手に入る国であっても、キューバと同じ安心感は無いということを知るのだ。
そんな人を何人も見てきた。

フランスに2年、学者として招聘され、住まいを提供され、生涯を約束されたにもかかわらず、そしてそれを望んでいたにもかかわらず、帰って来た人がいる。

私がベネスエラで会ったキューバ人の医師たちは、
「ここに来て、キューバのシステムのヒューマニズムを痛感する」と言った。他所の庭が綺麗に見える、というだけではなさそうである。

キューバでは無年金者はいない。社会的な仕事に一度も就かなかった人にも年金がある。
パン・米・パスタ・塩・油・卵・肉・魚・豆・コーヒー・馬鈴薯などなどの食糧品、石鹸・歯磨き・洗剤などなどが廉価で配給されている。

ハリケーンで家具が水浸しになった時、政府はその代替品を配った。友人のCDコンポが雷で壊れた時も、行政がこれを保障してくれた。自然災害時には政府が責任を持って人々を避難させ、破壊された物は保障する。仮住まいも提供する。
小さな島国だけれど、大船に乗ったような安心感がある国だ。

今日もクバーノは歌っている、
“クーバ、クーバ、ケ・リーコ!クーバ!”“ミ・クーバ!(私のキューバ)”

すべての国民の生命と人権が保障されている

教育と医療が完全無料のキューバ。
その中身を知って驚いた。すべての分野の教育費が無料ということは、教科書など資材は無論のこと、ユニフォームから給食、医学校など寮のすべての費用も無料。
誰でも30歳までは幾つもの大学で学べる。

だからなのかキューバ人の中には何ヶ国語も話す人、様々な分野の教育を受けた人、そこからいろいろな職業の選択をする人を多く見かける。
学ぶことは生涯に渡って保障されている。

夫の息子は働きながら建築の勉強をしているが、月曜から木曜まで職場で働き、金曜と土曜は学校へ通っている。もちろん日曜は休み。それで同じ給料。
友人のカルロスも同じように、週、2回は仕事を休んで語学学校に通っている。

能率が上がらないだろうとは思うけれど、それで社会全体が廻っていくならOKだ。元々ゆっくりしたラテン人、「明日できることは今日はやらない」のだから。
とはいえ、子どもが病気などで学校を休むと、先生が家庭訪問して休んだ分の教科を全部教えるというから、教育に関しては徹底している。

医療体制の素晴らしいことは、今や世界に知れ渡りつつある。

地域に密着したホームドクター制度は、風邪で熱が出た時、腰を痛めた時、往診してもらって助かったことがある。ベッドの脇に立った若い女性の顔を見たとき、その人が医者であることを理解するのに少しの間があった。何故ならその女性は胸に銀ラメ入りの真っ赤なTシャツの上に白衣を羽織っていたから。そしてとても綺麗な人だった。

起き上がるに辛いような時、傍まで来て優しく声をかけてくれて、脈を取り、話を聴いてくれる、それだけでもう治ってしまいそうだった。

歯周病で歯が抜け落ちそうになった時、充分な説明の後、「抜歯するか、歯茎を手術して歯を残すかはあなたの選択で」と、私の答えをいつまでも待ってくれた女医のクリスチーナ。

念のため先輩医師の診断も、と訊いてくれた上で私は手術を受けた。
手術前には身体が手術に耐えうるか、血液の状態は健康か、抗生物質は大丈夫かなど丁寧な検査が行われ、手術もその後の診察もすべて無料だった。

無料なだけが良いのではなく、医師が丁寧な説明と徹底的な治療をしてくれることが患者にとって何よりも安心なことなのだ。
そして医療費無料は「患者」だけではない。

夫の息子は生まれながら背骨が歪曲していた。
成長するにつれ歪曲は酷くなり、いよいよ手術となった。

手術とその予後1ヶ月間、彼の母親が仕事を休んで付き添った、むろん有給。広い個室で、付き添い家族のベッドも食事もすべて無料なのだ!

お見舞いに行ったときに覗いた病院の食事はなかなか良かった。美味しそうで、「マキコも食べていけば」と誘ってくれた。
これが医療費無料の真の姿なのだ。

人間愛は海を越えて

この恩恵にあずかるのは国民だけではない。
キューバの医師の多さは日本や米国など先進国をはるかにしのぎ、発展途上国へ医師を派遣し、また医学教育も、貧しさゆえに受けられない人々をキューバに招きそのチャンスを与えている。

ラテンアメリカ医学学校は、海辺の広く美しい敷地に立派な施設を備えた、学生寮完備の外国人のための医学学校。
米国からの生徒もいる。
これも無料なのだ。

私が感動したのは、災害地へのキューバ医師団の派遣。
寒さに弱いキューバ人が、山岳地帯など生活するだけでも大変な所、見たこともない怖い生き物がいる処へ、困難を極める医療活動に赴いていることだ。それも多くは若い人、女性も多い。

パキスタンから帰ってきたアルレーニスはまだ20代。
家族と離れて遠く異国での生活は、不便を通り越して恐ろしささえ味わったと言う。それでも彼女は、自分が必要とされるならば、また何処へでも出掛けて行くと言う。

ベネスエラの僻地に3年、幼子を夫と母親に託して行った姪のマリオネージャもまた、
「大変な処だけど、私たちが必要とされている」と。
まさにキューバ人の心意気。

人間の生命と人権は、国のシステムや方針とは関わり無く、無条件で保障されねばならないと考えるキューバなのだ。

「国際連帯」などという狭い枠をも越える、人類、いや、人間の人間たるあり方をキューバは当然の如く行っているのだろう。
そこに私のキューバ感動がある。


“俺たちは沈まないけど、浮いちゃうんだよナー”

「命令と強制が何より嫌い」というキューバ人。
おまけにその日暮らしのいいかげん人間、というのが私のラテン人の印象。
スペイン人の浪費癖に,アフリカ人の音楽とスポーツだけ(?) 気質が混じったキューバ人。

サンチャゴ大学の学者でもある友人が言う、
「米国が我々にどんな手段をもってしても強制することはできっこない、キューバ人は人の言うことは聞かないから。

でもネ、俺たちは決して沈まないけれど、かといって素晴らしく発展もしないだろうヨ、沈まないけど浮いちゃうんだよナーこの国民は」
と笑って言った。

それはピッタリな表現だ。
キューバ人は自主的・主体的でないことはやらない。納得のいかないことはトコトン議論する。

野球観戦の入場料が無料から有料になるとき、その提案をした政府に対し猛烈な反対が起こったそうだ。
実施が不可能にみえた。
それで国民的議論が行われた。
職場から地域、学校、あらゆる場で何回も議論が重ねられ(600回を超えたとか!)、政府の財政事情を理解した国民が,ついに有料化に合意したそうだ。

話好き、議論好きの国民性だから手間も時間もかかるが、みんなが納得して進むやり方は良いなあ〜。

“私の家はあなたの家、いつでもおいで“

息子たちが日本からキューバへ遊びに来たときのこと。
レンタバイクで調子よく走っているうちに道がわからなくなった、迷子だ。

カタコト、いやほとんど通じなかったはずの英語で道を尋ねた彼らに、家へ招き入れ歓待したキューバの人たちが別れ際に言ったそうだ、
「キューバにはこんな諺がある、
“私の家はあなたの家”
だからいつでも遊びにいらっしゃい」。

家族の絆の強いキューバ人。
「家族」とは親戚一同みんな入る。
そして、
“キューバはキューバ全部がひとつの家族“だと言う。

“今日の夢はかならずや未来の現実となる“
美しいキューバの海.自然。
海が大好きで、いつでも泳いでいたい、潜って魚たちと遊びたい私。
東ハバナの海もサンチャゴもオルギンも無人島の数々も、本当にキューバの海は美しい。
実に様々な生き物が自由・自然に生きている海。
緑豊かなキューバの自然。

かつてキューバ島を発見したコロンブスが
「この目で見たもっとも美しい島」と言ったキューバが、米国の支配下で、短期間のうちに木々は伐採され土地は化学肥料漬けにされ、人種差別と貧困、博打と売春、米国の植民地のように、国土も人の心も退廃させられていた。

キューバ革命は、そこから人種差別と貧困を無くし、低い識字率をすべての国民への教育で飛躍的に高め、医師を育て、民族文化を回復し、植林を進め土地を自然に戻し、人間性溢れる社会を築いてきたのだ。

「キューバ革命はキューバ人みんなでやったの。すべての家族が何らかの形で革命に参加した。家族の内、誰かがやっていた、革命に関係しなかった家族はないと思う」

義兄の妻、ルーペが言う。
まるで自分が革命に参加していたような誇りを持った言い方で。
ルーペのきょうだいは11人。2番目の兄がキューバ革命の闘いで命を落とした、革命勝利の半年前、17歳だった。

私の夫の母も義姉も、キューバ解放を戦い、革命後の人間の社会建設のために闘ってきた。そのエピソードの数々は、映画よりもスリリングで、そして胸を熱くしないでは聴けないものだ。

スペイン語の教師、マチルデが話してくれた。
「子どもの頃、私たち黒人は海まで規制されていた、白人の泳ぐ綺麗なビーチは黒人立ち入り禁止だった。もし革命がなかったなら、私は教師にはなれなかった、何の教育も受けられなかったでしょう。革命が私たちを人間にしてくれた」。

子どもたちの笑顔が輝いている。
「大人になったら看護士になる」
「医師になって貧しい国へ行く」
「教師になりたい」
みんなが希望を持っている。夢を語る。

“Gracias a la vida グラシャス・ア・ラ・ビダ(人生よ、ありがとう)”というチリのビオレータ・パラの唄が、キューバではよく歌われる。
ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのオマーラ・ポルトウオンドもうっとりする美声で唄っている。

「我が人生よ、ありがとう」とみんなが言える社会を、世界中、すべての人々に実現したい。それがキューバの夢。

人類みんながひとつの「家族」となる世界。

フィデル(・カストロ)が言う、
「今日の夢はかならずや未来の現実となる」。


団塊の世代の私は、戦後の貧しさの真っ只中で生まれ、きょうだいはなく、幼い頃両親とも離れた時期があり、またその後、親の苦労を見て育った。

成人して自立してからも、今日生きるために食べ物をどう調達するか、明日はどうなるのだろう、という不安の中で、自分の居場所、自分の住まいが欲しい、心配しないで生活できる保障が欲しい、と切望していた。

そんな切迫した暮らしの中でも未来に夢を描き、自分の個性を外さず、できれば能力を磨き、社会に役立つ人間になってみたいものだという大それた望みも抱いてきた。
青春時代であった60年代、日本の若者は未来に大きな夢を持っていた。

日本は民主主義の発展した経済豊かな国になるだろう、将来はすべての国民の生活が保障され、日本独自の美しい文化がますます花開くだろう、と。

死ぬ直前まで働いてきた、といっても過言でないほど私たちは頑張ってきた。

日本は発展した。
自分もお陰様で、子育てできて、生活してきた。
だが、どうだ、あの夢はどこへいったのか。
国民生活の保障どころか、日本はまともになったのか。
そんなとき出会ったのが、キューバだった。
私たちの描いた夢が、社会が、ここにあったじゃないか!


今日もご縁を頂いてありがとうございました。
!VAYA CON DIOS!
あなたに幸あれ♪




★雑誌「ひとりから」38号(2008年6月号)掲載
キューバ特集:「岡惚れ、ベタ惚れ、ビバ!クーバ!」

★雑誌「ひとりから」は、12年前、金住典子さんと原田奈翁雄さんというお二人が、
「わたしたちひとりひとりが、真の主権者となる気運をみなぎらせていこう」と、
自主出版されているものです。
堤未果さんなどの書き下ろしが掲載されています。
連絡先:03−3985−9454(編集室ふたりから)


活字の誘惑 記事


岡惚れ、ベタ惚れ、ビバ!クーバ(万歳!キューバ)!
愉しく生きられる祖国になろうヨ!
人間は金よりも尊い
"愛"を持って闘ったキューバ
食べ物をもてあそんではなりません