永遠に > ご挨拶


◆ご 挨 拶

母、御姓シヅ子(筆名、那智シズ子)
十月四日朝十時二十分、永眠致しました。享年、八十五歳。
文字通り、静かに、眠ったまま逝きました。
本人の希望が、生き方と、その死の迎え方まで貫かれた一生でした。
「わが人生、ああ面白かった」
これが母の、人生への感想の言葉でした。

生前は大変お世話になりました。ありがとうございました。

母は、九州、大牟田の生まれで、炭坑産業花形時代の三井三池、炭坑の町で生まれ育ちました。五人の兄と一人の姉、末っ子として生まれた母は、もし男子だったら、二百円つけて他家へ出す心積もりであったという父親が、女子誕生とあって大そう喜び、
「お天道様の照らない日はあっても、御姓さんがシヅ子さんを負んぶしてこない日は無い」
と言われるほどの可愛がりようだったそうです。

当時、米屋を商っていた母の家は、一抱えもある太い鴨居を真っ白な大蛇が這っていた、というほどの暮らし振りで、そこで両親や兄、姉たちから
「クソ煩悩」と称されるほど愛されて育ちました。
結果は、大わがままとなり、当人曰く、
「私は欲張りの目立ちたがりや」
「思いついたことは、どんなことでもやるし、やれない筈は無い」
と信じ込んでいました。おまけに、
「馬年生まれの私は、じゃじゃ馬、暴れ馬」その上「多重人格」(?)
と本人自ら言うほどの破天荒ぶり。

十七歳のとき(一九三五年)、泣き狂う母御を後に、ひとり「東京へ行く」と言って、九州の田舎から家を飛び出した、といいますから、誰の手にも負えなかったのでしょう。
高等女学校を首席で卒業した記念の「漆塗りの硯箱」が物語るように、頭脳にも、またその容貌にも、相当な自信を持っていました。

七十年前の大牟田で、真っ赤なオーバーコートを着て歩き、新聞ダネになって勤め先をクビになったなど、数々のエピソード。
単身上京して、「小説家になる」とか、「ダンサーになる」気だった、と聞くと、とても正気の沙汰とは思えない、というのが娘である私の感想なのですが、、、 。

十七歳から親に心配かけ始めた母は、
「わたしのお母さんは、仏様のように優しい人だった」
とよく言っていましたが、その母御(私のおばあちゃん、ナチさん)が亡くなったのは、母が三十六歳のとき、やっと借家住まいができた(それまでは住む家もなかった)とはいえ、夫(私の父)も職も不安定(居なかったり、無かったり)で、母御がまだまだ心配真最中のまま、逝ってしまったのを、
「母さんに済まないことした」
と、後に言っていました。

その後、七歳の私を置いて何処かへ行ってしまった母でしたが、二年後、再会したときには泣いて喜んでくれました。

それからの母は、働くことに、そして私を「一人前にする」ために、一所懸命でした。
休みの日には、私に洋服を作ってくれたり、映画に連れて行ってくれたり、、、。(もっとも私に対し「二十歳に成るまでは単独行動してはいけない、友だちとも出かけてはいけない」という厳しさ?でしたので、何処へ行くにも母が一緒だったのでしたが)

そんな母が、五十歳で念願だった自分の家を建てて住み、数年経った頃、すっかり生きる気力を失って、
「何もかもが面倒くさい、つまらない」
と言い出し、「死にたい、死にたい」と言って、私を困らせました。

私は、一人目の子どもが生まれた頃で、私はそれまでの自分の「生」に否定的だったのが、初めて「生きることの歓びと感謝」を、実感していた時でした。

元々、人の言うことに耳を貸すような母ではないので、何を言っても勧めても、「死にたい」はおさまらず、段々「ボケ」が始まっていくようでした。

私は、これは単なる、目的を失った人生の一種の退屈さなんだナ、と思ったので、赤旗新聞を読むことを勧めたり、社会的、政治的な話を仕向けたりしたのですが、元来の政治嫌い。そもそも、私が十九のとき、日本民主青年同盟に加入したのを知って激怒し、
「もう親でもなければ子でもない!」
「極道とアカにだけはなるなと昔から言われている」(一緒にしないで欲しいのに、、)と啖呵を切られて以来、
「赤いものは見るのも嫌、赤い旗なんて血の色みたいで気持ち悪い」
(「血の色なのよ、悪い人たちに善い人たちが殺されて流れた血の色を表してるから、貴い色なの」と説明しても)
「感じるものなんだから嫌いはキライ!」
と、取り合ってくれません。

ところが、そこへオイルショック。
数日のうちにトイレットペーパーが数倍の値上がりをし、あげく姿消し、、、 。となって、ナント、母は怒り出したのです。
「コレは一体何事?」
と言うので、ここぞとばかりに赤旗新聞を差し出し、
「ここに書いてあるのよ、その理由が。ここだけでいいから読んでみて」

激しい人だけに火が付いたら燃えました。
正義感が甦ったのでした。
母が、生き返ったのです。赤旗新聞のおかげでした。
そして、日本共産党の仲間たちの温かさ、心の広さ優しさに、「頑固馬」は耳を持ち始めたようでした。

水を得た母は、「資本論」など、数々の文献を読み、趣味に津軽三味線、囲碁、スキー、ザックを背負って日本中?を歩き回り、(出掛けると一ヶ月も音沙汰なし、泊まるところに困ってその土地の党の事務所に電話して助けてもらって)と、人生を楽しむようになりました。

党活動への馬力も迫力で、赤旗新聞を持って近所中を勧めて廻り、一人でも駅に立って署名を訴えたりと、なかなかでした。赤旗紙にも度々お世話になり、また自費出版本を四度も出すなど、世間が認めぬ分、執念深くやっていました。

近年の母は、
「あー、あたしの人生は愉しかった」(でしょうね〜私の呟き)でした。

母はかなり以前から、
「死んだ時には葬式はいらない、信じるような宗教も持たないから何もしなくていい。私は生きてる内は人の役に立てなかったから、せめて死んだ後に、死んじまったら私はなんにもわかんないんだから痛くも無いし、献体に出して、役に立ててほしい」
と言いもし、書いてもいました。
そして、
「できたら、骨の一片を、大好きなエンゲルスの眠るイーストボーンの海に沈めて欲しい」と。
 
今、私の中に悲しみは殆どなく、少しの寂しさだけが在ります。
それは、もっと母と、親と子の交流をしたかった、という思い、女同士の話なぞを世間並みにしてみたかった、一緒に温泉へ行ってみたかった、という軽い寂寥感です。
子どもの頃は、母の胸に抱かれたい、と願い、思春期の時には母の呪縛から逃れたく、、、。

そして、年を重ねて、
「今度、家を持とうと思うので、一つ敷地の中に別々の住まいを造って、二世帯住宅を建てようか、お互い干渉しないけど安心できるっていう暮らし方で」
という私の提案に、
「いいよいいよ、独りが気楽、あんたはあんたで好きにしなさい」
と断られてしまったのですが、後々、独立独歩の母に感謝しました。

娘に頼って、また多くを注文してあれこれ言うでなし、私を自由にさせてくれている、本当に「子孝行な母」と、私は母に、度々お礼を言うようになっていました。
そんな母が、今年の二月、キューバに発つ私に、
「初めて、一緒に暮らしたいと思ったよ」
そう、言いました。

昨年、十三歳上の姉(トメおばさん)が亡くなり、
「姉さんがいなくなってつまらない」
と母は言い、そしてこの初夏、きょうだい最後の兄(辰雄おじさん)が亡くなりました。母の一番好きだったお兄さん。

母は、
「兄さんがいないんじゃ、この世はもう未練はない。この世よりもあの世の方が、私を可愛がってくれる人がいっぱいいる」
そう言ったのです。

それでも母は、遅くも十二月には日本へ帰る、という私に、
「そう、じゃ楽しみにしてるよ」
と言ってくれたのでしたが、、、 。
あと二ヶ月、待ちきれなかったのでしょうか。

本当にお世話になりました。
母に成り代わりまして、厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。
母の遺言どおり、遺体は順天堂大学へ献体し、百万円、日本共産党に寄附させていただきました。

遺骨が戻りましたら、母の希望した、イーストボーンの海へ出かけようと思います。
                           合掌

二〇〇三年 晩秋
                        
                             眞樹子
 


 母を詠む


山燃ゆる 孤高の御魂 静まらず
      紅 染むる 激しき命

貫きて 大風のごと 意のままに
     秋風立つも なべていとわず

吾が道は 悔い無き道と 常に言ふ
      残す言葉に 愛惜しみてと

いま焉えん いとほし命 燃え尽きて
      朝日に迎ふ 君が顔(かんばせ)

愛(かな)しみを  遠きにやりて 今還る
     母御の胸は ふるさとこころ

おぼつかな 訪る秋の 風立ちて
       主なき庭に 紅薔薇匂ふ



今日もご縁を頂いてありがとうございました。
!VAYA CON DIOS!
あなたに幸あれ♪



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鎮魂〜27年目の6月6日
"紅薔薇を飾って"