“オー・マイ・パパ”
眞樹子は、まるで赤ん坊を抱きかかえているように、左腕の包みに右手を添えて、小走りになっていた。意外と重いその包みは、今しがた酒屋で、
「美味しいお酒を一本ください」
と言って、店主が、
「美味い酒ならこれですよ、二級ですけれどね、これは旨い、一級ではこの味は出ないんだよ」
と選んでくれた綺麗な箱に入った一升瓶だった。
(下赤塚の大通りの交差点、、)と眞樹子が頭の中でまたも反芻して、眼を前方に凝らしたその時、突然現れた、かと思ったほど目の前に、居た。
「おとうちゃん」
「眞樹子か」
同時に二人は言った。
衝動的に抱きついた眞樹子を茂雄は、やはりしっかりと抱き返した。
有楽町線下赤塚駅前の大通りの交差点のほとんど真ん中で、父と娘はしばらく抱き合っていた。お互いが顔を見たときは、涙でくしゃくしゃになった父の顔であり、娘の顔であった。
二十九年ぶりに捜し当て、会えた父に、眞樹子は甘えて腕を組んで歩いた。
長身の茂雄は茶のピエール・カルダンのスーツに黒のシャツ、赤茶のネクタイを締めていた。髪は艶やかにパーマがかかり、一分の隙も無い、ダンディな昔の父そのままだった。
案内された家は、三十年は経っているだろうと思われる平屋の小さな借家だった。
一間きりのその家は、手入れが行き届いていて、狭い台所の板の間や流しは光るほど磨かれていた。そこに、揚げればいいばかりになっている串にさした一口カツが用意されている。少し日差しの入る掃き出し窓の外には、丹精した植木鉢が幾つか並んでいる。
部屋の中は余分なものは何もない、というように整頓され、ただ一つ、大きな花梨のサイドボードが置いてあり、中に趣味の良い陶器が並んでいる。
物珍しげに見回している眞樹子を、茂雄は目を細くして見てから台所に立った。
二人が家へ着いた時から、オロオロと二人の周りで、
「まあ眞樹子しゃんですかあ、よく来て下しゃって、ねえ」
あとは聞き取れない挨拶やら歓迎やら言って、茂雄の顔と眞樹子の顔を交互に見ながら、やたら頭を下げていた茂雄の妻のキミ子が眩しそうな目付きで眞樹子を見上げるように見た。
「父が大変お世話になりまして、、、」
と眞樹子は畳に両手をついた。
「わたしの方が、おとさんに世話になってるんですよ」
とキミ子は眞樹子の頭より低くお辞儀をした。
出来立ての料理を持って、茂雄が台所から入ってきた。
「俺がつくったんだぞ眞っ子、いっぱい食べろ」
と、茂雄は嬉しさを隠しきれない様子で盃を持った。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
十年前のあの夜、私と父は一升半空けて語り明かした。
「俺はお前を捨てた悪い父だ、お前に合わせる顔はない。それなのに、、」
何度も何度も、父は言っていた。
その前の年、私は最愛の娘を亡くしていた。三年半の闘病の果てだった。
すべてが空しく思え、生きる気力さえも失っていた。そんな私に、父を探す方法がある、と知人が動いてくれた。
私の記憶の父は、私にごはんを食べさせてくれた父。
てんぷらや、うどんで作ったジャンジャンメンは父の味。
日曜の朝は、お豆腐の味噌汁に生卵入りの納豆が決まりだった。
母は、納豆が嫌いな九州生まれだから、あの献立もやはり東北の父の味だったのだろう。
そしていつも私は、父のあぐらの中に居た。お酒を呑んでる父が時々、顎を私のおでこにこすりつける。タワシのような父の顎にいつもわたしは悲鳴をあげた。
いちばん昔の記憶は、ダンスホールで踊っている父と母の姿。
わたしはその時、三歳くらいだったらしい。
父の言いつけでバンドの人のところへ、わたしがリクエストに行った。
すると、それまでゆっくりした曲だったのがテンポの速い軽快な曲になった。まわりの男女は皆、それまでと同じスタイルで同じステップで曲に合わない踊りをしているのに、私の父と母は、陽気に跳んだり跳ねたりしてホールいっぱいに踊った。まるでスターだった。
私は子供心にとても得意げな気持ちだった。
“オアシス・オブ・ギンザ”というそのダンスホールは、
日本で最初のダンスホールであり、銀座松屋の地下にあって,当時の最先端のモボ、モガの溜まり場であった、とダンス誌で紹介されているのをずいぶんあとになって読んだ。
私の父と母が仲良くしていた記憶はその時が最初で最後だった。
母は幼い私に別れた父を悪く言った。
酒浸りで金遣いが稼ぐより多い、私にかこつけて金をせびる、、。
私は父を恐れた。ほとんど家にいない父。たまに帰ってくるのは夜更け、そして母との喧嘩。わたしには必ずおみやげを買ってくる父だが、あまり久しぶりに会うと、なんだか怖くて甘えられない。
そして六歳の時、母が私を置いて出て行った。
その日、母は私を遊園地に連れて行き、そして「何が欲しい」と訊いて、「何でも買ってあげる」と言った。私は恐ろしい予感を覚えながらも、ハモニカと木琴を買って貰った。
母は、父に買って貰ったという黒のスカート一枚を残して、三輪トラックに荷物を積んで、母もそれに乗り込み、砂ぼこりをあげて走り去った。
その後ろ姿を、涙でぼやけた目で見送っていた私。
あのトラックの背中と黒のスカートが映画の一場面のように、今も私の脳裏に焼き付いている。
その晩、一晩中私は泣いていた。
木琴を叩きながら泣き、吹けないハモニカを泣きながら吹いて、泣きに泣いた。いま思い出しても悲しくなるほど、あの日の悲しさは忘れられない。
翌日、父が若い女性と帰ってきた。
「お姉ちゃん」と呼んだその人と父と私の三人の生活は長くは続かなかった。
「お姉ちゃん」の実家、埼玉の竹川という田舎町へ私が一人で身を寄せたのが七歳の時。以来、父とは離れてしまった。
会えないでいる長い間、私は父が恋しかった。
その頃流行った“オー・マイ・パパ”という歌がなぜかとても好きだった。
私の名前は、“大きな樹が真っ直ぐにすくすく伸びるように”と、父がつけてくれたと言う。
私は父似、と自分でも思う。顔も似ているけれど、好みや気性は父譲り。そしてやはり、とても好きだったんだと思う。
去年、二月十四日、父が死んでしまった。ヴァレンタインデーに。
父の顔に私の顔をくっつけて、私は泣いた。あんなに元気でダンディで、それが心臓が悪くなったなんて、、、。
“オー・マイ・パパ、帽子を横ちょにかぶり、おどけていた、、、”
母に気兼ねして歌わなかったこの歌を、いま私は歌っている。
父の声が聞こえる、「眞っ子」と呼ぶ声が。でも、あの父の匂いが思い出せない、もう少しで思い出せそうなのだけれど思い出せない。
あの匂いを思い出せたら、、、。
(一九九五年一月八日 記)